リモートワークはほんとうに悪者?
メンタルヘルスの本質を考えてみる

2021年3月9日

 世界がコロナ禍に陥り、目論見ではオリンピックを契機に少しずつ広がっていくはずだった「リモートワーク」という働き方が日本でも一気に市民権を得て早1年。入社してから上司や同僚に一度も対面で会ったことのない社員も出てくる中、遠隔で行う部下の心のケアに不安を抱える上司は多い。

 本コラムでは、リモートワークとメンタルヘルスの関係について、企業勤めのごく普通の人事担当が、日ごろの人事の現場から感じる問題の本質を考える。

子供のころと、大人のいま -あの頃はよかった

 この原稿を書いている左横の区立公園で、まだ幼稚園に入ったくらいの小さなこどもたちが『逃走中』(フジテレビの人気番組)のハンターごっこをしながら遊んでいる。

 あの番組はこんなに小さな子たちにまで浸透しているのかとプロデューサー・ディレクターの方に頭が下がる思いもあるが、それ以上に胸を打たれるのはその子たちは純真無垢で淀みがなく、文字通り、心の底から楽しそうなことだ。それに比べて私たち大人は、仕事と生活を線引きし、仕事は仕事として割り切り、歯を食いしばって必死に頑張っている(のが全員ではないが、世の中の多数派だと思う)。そこに彼らのような、目を輝かせ、心が躍り、見るからにキラキラしているイメージは、あまりない。

 そして、そんな中でも耐えて、耐えに耐えて、その結果として心を病む人は、とても、本当に、多い。

 全てが仕事に起因するわけではないだろうが、少なくとも厚労省の統計では、うつ病患者は2017年に約127万人。2002年には約71万人だったのが、それ以降3年ごとの調査で、回を重ねるごとに10数万人ずつ増え続けている(震災により被災地域の一部が調査対象外となった2011年を除く。ここまでの統計資料や、様々な精神疾患についての解説が、厚労省の『みんなのメンタルヘルス』というウェブサイトに分かりやすくまとまっているので、是非参照されたい)。

 精神学者やカウンセラーではないので、原因をどう分析しどう対処するか、という話は専門家に譲るとして、事業会社のいち人事担当として、このところのリモートワーク急拡大の真っただ中、メンタルヘルスを健全にどう保てるか、逆にそれを阻害する要因があるとしたらどうすればよいか、少しだけ考えを巡らせてみたい。

言葉ではぐくむ≪共感≫の感覚

 人間には、心があり、体がある。「メンタルヘルスに問題がある」という場合は、目に見える外傷は体に現れないが、心は深く傷つき、明らかに病気の状態だ。心が健康な状態は、様々な要因によってもたらされるだろう。美しい景色に心を奪われているとき、バスケの試合の激しい動きに熱中しているとき、ネットフリックスで愛の不時着を見始めたら朝になってしまったとき。でも、そのどれよりもきっと心が喜ぶのは、人との≪共感≫の感覚が満たされるときではないか、と思う。共感とは、自分の考えていることが相手に伝わり、「そうだね、気持ちわかるよ」と理解してくれている、と自分が思える感覚、とでも言えるだろうか。

 人は意識的であれ無意識であれ、概ねどんな時も、絶えず何かを考えている(全く蛇足だが、寝起き直後やシャワー中、散歩中など、何も考えていない時の方がひらめきは起きやすいらしい。それを脳科学では、脳のデフォルト・モード・ネットワーク、という)。そして必要と思われる場面では、考えを、言葉を使って人に伝える。空気の物理的振動に過ぎないその音列が相手の耳の鼓膜を震わせ、それが電気信号となって脳に届き、ようやく言語として認識され意味が伝わる。今度はそれをトリガーにして相手から自分に、リアクションとしての言葉が届けられる。その一連の過程を幾度も繰り返しながら、何となく会話は成り立ち、時に話が弾んだりして、楽しい。

リモートワークで失われるもの

 ただ、これだけではとても大切なことを見落としてしまう。それは五感の存在だ。人と人の意思疎通は言葉によって成り立っている、だけではない。脳が受け取るインプットは、耳から受け取る言語音のみならず、目で視る相手の表情の機微、鼻で嗅ぐコーヒーの香り、手で触れるカップの温度、口にする苦いけどほっとする味、その全てが、相手とのコミュニケーションの場を形成し、相手と共有する情報であり、それらの多器官からの多様な情報を総合して、脳が相手の印象や記憶を形作っているという。共感の感覚を得る上では、場の共有は極めて重要で、その情報量は少ないよりも多い方がやはりいい気がする(ちなみに、本来生物にとって避けるべきものと認識される「苦み」の塊であるコーヒーを私達が美味しく感じるのは、コーヒーを嗜むその場面が自分にとって快適だったことを脳が記憶し、味と結び付けているから、らしい。ビールも同様で、言わば記憶が味を創っている)。

 お察しの通りかもしれないが、リモートワークでは、相手との物理的な「場」「空間」の共有がない。その時点で、脳が必死に受け取って処理してきた、相手と共有できる情報は、一気にその量が激減する。かろうじてビデオ会議などで顔が見られたりもするが、その顔は平面であり立体ではない。最後に残る、本物に一番近いものといえば、結局声くらいだろうか。

 共感のための大切な要素である身体性は大きく減じられ、相当、心許ない(情報量が少ない方が、人付きあいがよっぽど気楽だわ、という方は、自分にとって最も大切な人と遠距離恋愛をするしかなくなった世界を想像して頂きたい)。だからリモートワークでは共感が高まらず、心に不調をきたしやすい。故に、やはりリアルな場での対面コミュニケーションは重要なので、ゆくゆくはリモートワークを縮小し、出社に戻していくべきだ。・・・さて、果たしてそうだろうか。

メンタルヘルスを健全に保つための本質とは

 そもそも、ビフォーコロナの時点で、メンタルヘルスは重要なHRのテーマだった。会社に出社して「島」に腰掛け、随時上司や同僚と相談し、時に雑談しながら仕事を進めていたあの頃。セピア色の感傷に浸りそうだが、それでもたくさん病気になる方がいたのだから、既に従業員の心のケアは非常に重要な経営課題だったのだ。そうなると、リモートワークでは対面での仕事よりも「相対的に」心を病みやすくなる、ということはもしかしたらあるかもしれないが、メンタルヘルスを何とかしようとする上で、リモートワークを排除することが最善の解決策というわけではなさそうだ。むしろその対症療法を選択する時点で、本質を理解しようとせず遠ざかっている気さえする。

 では、その本質とは何か。それは原点回帰、やはり≪共感≫ではないかと思う。リモートワークでは前述の通り、確かに、共感のための材料が対面に比べ不足することは事実だ。だがそれでも、単に不足するだけであり、無くなってゼロ情報となったわけではない。音声通話を通して言葉を使った意思疎通は引き続きできる。顔だって、平べったくて温度のないディスプレイを通してだが、それでも表情は割と掴める。

 リモートワークそのものが悪だというのは、思考停止していると言ったら言い過ぎかもしれないが、とはいえ絶対に出社の方がいい!と思う方がまだいるとすれば、果たして出社が当たり前だったあの頃に、オフィスで部下と、共感を醸成しようと真剣に努力していたかどうか、とても疑わしい。まっとうな努力をされてきた方であれば、リモートになったとて、限られた状況の中で何とかしながらうまくやっているのではないかと、周囲の上司たちを見ていて思う(誤解のないように書き添えれば、それは何も上司だけではない。部下だって、上司という一人の人間に対する共感ができていたか。パワハラが部下から上司へのベクトルでも成り立つことを思い返したい)。

人間性

 最近のハーバードビジネスレビューの特集は、「人を活かすマネジメント/生産性と人間性をいかに両立させるか」だった(2021年3月号)。人間性という言葉で改めて思い出したいのは、会社を構成し、成り立たせているのは、1人ひとりの、心と体と、そして命をもった人間である。「会社は」、「会社として」というフレーズを人事は日がな一日よく使うが、その「会社」はあくまで法的概念としては「人」(法人)であっても、現実世界に実態を伴わないものだ(言うまでもないが、「ビル」は会社ではない)。意思決定するのも、経営というこれまた人間が集まった集合体なだけで、「経営」という物的存在があるわけではない。そう考えると、「会社として」「経営は」などは不思議な言い回しだなぁと嘆息するとともに、いかに人間性をそぎ落とし、人の持つ複雑な感情から意識を遠ざけて(敢えて反らして)日々仕事をしているものかと頭が痛くなる。

 1900年代以降、テイラーの『科学的管理法』がアメリカで注目され、実践されるようになった。これにより、それまで経験や勘に頼ってきた生産体制を標準化した「仕組み」にすることで、効率・能率を突き詰め、いかに生産性を向上させるかという経営・労働者管理の観点が企業の中に生まれた。ただ、これが行き過ぎることで、人は仕組みの中の取るに足らない歯車、生産のための材料と化していく(なお、テイラー自身は人を機械のように扱おうとした訳では決してなく、優秀な工員や熟練工を徹底的に観察することでそのやり方を標準化し生産性を高め、それによって雇用主と働き手双方が幸せになるように願っていたそうだ)。この「管理」は、人事領域でいまも労務「管理」や勤怠「管理」、はたまた「管理」職、「管理」監督者という名称にまで、うっすら日本語のニュアンスに残滓が見えるような気がするが、その後、職場の人間関係や与えられた期待の程度に起因する個々の感情ややる気が生産性に影響を及ぼすことが、ホーソン実験やそれに続くメイヨーの『人間関係論』によって発見・論じられた。発見だなんて大げさで、そんなの当たり前だと思うかもしれないが、それが損なわれることで発現するのがまさに、メンタルヘルスの問題ではないか。その人の心は置き去りに、ヘッドカウント・人件費・工数として仕事につっこむ。その人の心は置き去りに、あれはどうした、これはまだか、だめじゃないか、とやる。裏では、ハイパフォーマー・ローパフォーマーというラベル(場合によってはレッテル)を張る。そのまた裏では、あの上司はマジでxx上司(自粛)、などと罵る。人が相互の人間性を無視しながら成り立つ会社は、果たしてどれだけ社会にとって有益な存在となりうるだろうか。 

人間の「面倒臭さ」にまじめに向き合い、受け止める

 本質は、人間の、何を考えているか簡単には分からなかったり、ハウツーだけでは測り切れない、とてつもない面倒臭さも全て抱き合わせひっくるめて、何とかして共感を醸成しようとすることにあるのではないか。そのためには時間も手間もかかるし、巷に溢れるノウハウも中々全ての場面に当てはまらず苦悩する。それでもなお諦めず、その人と向き合うことが大事なんだろうと思う。やる気を出した人間は強い。本当にすごい力を発揮するし、その活力は周囲に伝播し、何となく周りもアガる。ステキなスパイラルだ。リモートワークになったところで、その本質は変わらない。共感のための材料は減ってしまっても、回線がつながっている限り、引き続き向き合い、耳を傾け、想いを伝える・共有することはできる。仕事だろうが何だろうが、人間が自分たちの脳みそで作ったこの人間社会なのだから、主観を大切に、考えを伝えあい、分かり合おうとするその態度や姿勢が、どこまでいってもとても大切なことなのではないだろうか。

最後に

 リモートワークのせいで、と悪者にするのは簡単だが、本質から目を反らし、責任転嫁をして話を片付けてはいけない。脳が受け取れる五感のインプットが少なく不安な今だからこそ、より丁寧に(でも時間は限られるので端的に)、想いを言葉に乗せて人間的なやり取りをしたいものだ。人が人らしく、まるで子供の頃のように目を輝かせてワクワク仕事をする社会を、AIのシンギュラリティが訪れるまでに、人事として青臭く本気で追求してみるのも悪くない。

筆者紹介

大手人材会社 部門担当人事

内海 優 Yu Utsumi

母語の東北弁を研究対象とした言語学修士を持つ現役人事担当。これまで、貿易商社、Fintech企業にて、採用、教育・研修から労務管理や給与計算、規程管理、人事制度企画・運用や海外駐在員管理・グローバル人事など、人事領域を幅広く経験。現在は大手人材会社のHRBPとして事業の発展に人事の側面から貢献すべく日々奮闘する傍ら、週末はアマチュアオーケストラの練習活動にいそしむ。酒と鉄道と音楽を愛して止まない六角精児氏が心の師匠。